実は、静岡生まれです。
干し芋が誕生したのは、今から200年近くも前の1824年(文政7年)のこと。江戸時代後期、静岡の海辺の村(現在の御前崎地域)で農家をしていた栗林庄蔵が、江戸の芋問屋で出会った“やわらかいサツマイモ”からひらめいて、煮切り干しを作ったのが始まりでした。ほどよく甘くやわらかで腹持ちもいい。評判が広がって、近所の農家も続々と作り始めました。1892年(明治25年)には現在も多くの生産者が行っている製法「蒸切り干し」が、静岡・磐田地域の大庭林蔵によって考案され、干し芋人気は地域をこえ、関東にまで広がっていきました。
干し芋が茨城に到来したのは、蒸切り干し製法の誕生から間もなくの1895年(明治28年)。阿字ヶ浦で暮らしていた照沼勘太郎が、静岡県沖で遭難したときに目にしたという干しいもを作り始めたのが始まり、と言われています。その後1908年(明治41年)頃からは、那珂湊でせんべい屋を営んでいた湯浅藤七や、当社代表の先祖にもあたる阿字ヶ浦の小池吉兵衛が干しいもの製造・販売を開始。さらに前渡村(現ひたちなか市)の村長兼農会長だった大和田熊太郎の尽力もあり、一気に干しいも製造が普及していきました。
阿字ヶ浦の堀出神社には、この地に干しいもを広めた人物として、吉兵衛の胸像が建立されています。
冬に海から強い風が吹く。干しいもが生まれた御前崎と同じ気象条件にある阿字ヶ浦は、干しいも作りには最適の地。生産量はどんどん増え、戦後の1955年(昭和30年)頃、ついに静岡と茨城の干しいも生産量が逆転しました。1972年(昭和47年)には茨城甘藷むし切干対策協議会(現・ほしいも対策協議会)が設立され、干しいも日本一の道を邁進していきます。
参考文献:「ほしいも学校」(有限責任事業組合 ほしいも学校刊)、「ほしいも百年百話」(茨城新聞社刊)
茨城県を代表する特産品・干し芋。なかでもひたちなか・東海地域は、全国生産の8割を担っている、日本有数の干し芋生産地です。
そんなひたちなか地域に干し芋の製造方法が伝わって、100年。でも、日本で干し芋作りが始まったのは、それよりずっと前のことです。ここでは、今も日本人に愛され続ける干し芋の、長い歴史をご紹介します。